誰かのための蜘蛛の糸

ただ思っていることを書いているブログです。

勉強はなぜすべきなのか

私は言ったことがないのでわからないが、「勉強をなぜしなくてはならないのかがわからない」ということがよくあるらしい。

大学生のときに塾講師をしたときにも聞かれたことは何度かあったが、「やりたくなければやらずに諦めた方が良い」とアドバイスをすると、なぜか納得しない感じになるのが不思議であった。どうもこの手の意見は、親が口うるさく勉強をしろという家庭で育った子供の方が出て来やすい傾向にあるような気がする。

個人的な体験としては、「勉強をしなさい」と親に言われる子供ほど成績は良くないし、なるほどと思わせられるような言動を見せつけられたこともない。これは自分の子供のときの同級生であっても、大人になってから出会った子供でも変わりはない。

親自身が勉強ができず、勉強を何のためにしているのかがわかってこなかった、正確に言えば、考えて自分なりの結論を出すことができなかった場合にこの現象は顕著である。「勉強ができれば、良い大学に進学でき、そして良い就職先に就職できる」という言葉を信じ、それが子供の幸せになると思っているが、自分で考えてこなかったので勉強の仕方もさせ方もわからないのである。そもそも勉強などする必要がないと信じ、子供にもそれを強制する親よりはマシであるが、この発想で育った子供の将来は環境や運に大きく左右されることになる。いわゆる貧困問題における負の連鎖の中間層であるように感じる。親が努力しているのに負の連鎖を断つことができないという意味では結果だけみると可哀想な層である。

個人的には、勉強をすべき理由にはいくつかあると思っている。

一番大きな理由は、考え方の基礎を学ぶことができるということにある。数学にしても、歴史にしても、問題が発生し、それを解決するための方法が示されており、その中でも学校でやるようなものは基礎的で考え方として使うときに汎用性が高いものが多い。「考える」というのは必ずしも誰もがはじめからできるものではなく、運動と同じように、訓練を繰り返すことで頭の動かし方がわかるものである。そのための良い頭の体操のフォーマットが学校で行う勉強というものだと思っている。ボールの蹴り方と投げ方が違う動作であるように、数学での計算を行うときの頭の使い方と歴史でなぜそのような事件が行ったのかを考えるのは別の発想が必要であり、両方を身につけられる方が好ましい。動作にしても考え方にしても、思わぬところで相互に影響しているからだ。

その他の理由としては、生きる上で役に立つ知識であることが経験上わかっているということ、また、今後自分の興味なりを切り拓いていく上で、自分の興味を発見するための素材集としての意味があるということも挙げられると思う。

勉強をしなくてもすごい人はいるという意見を聞くこともあるが、それは(学校の)勉強を通じて考える訓練をせずとも、別のところで考える訓練ができたため、結果として勉強に打ち込む必要がなかっただけであると思っている。学校の勉強は考える訓練の素材として最適であるだけで唯一の方法というわけではないからだ。

その意味では、「勉強はなぜすべきなのか」という問いに対しては、「別にしなくてもよい。ただし、考える力を身につけるためには最適な方法のひとつであるとは思う」が個人的な答えになりそうだ。

もちろん、私の考え方の前提は、「考える力は生き抜く上での重要な要素である」ということである。考えることができれば、そのとき、その状況において何が最適な行動かを割り出せるし、あらゆる状況で何をして良いかがわからなくなることがなくなるからだ(諦めるという結論も考える力があってこそ出せる結論のはずだ)。また、経験論としても、少なくともそのようなことができる人でお金や人生に困っている人は見たことがない。たとえお金や人生に困っていたとしても、少なくとも自分の考えた計画で行動できれば納得はできる。納得できれば、失敗であっても経験のひとつとして取り入れられるし、常に進化、成長する方向へと進んでいける。

このような考え方が合っているか合っていないかなどはどうでも良い。そもそも正解もない。ただ自分が思っていることであり、自分が現時点でそのように結論づけているだけの内容だ。しかし、世の中の大半のことに正解はない。たとえば、牛丼は350円なのかということにも正解はないが、そのようにした理由は必ずある。この理由を導き出すのは「考える力」だ。

だから私は考える力が重要であると思っているし、考える力を身につけるためには勉強が最適な方法のひとつであると思っているのだ。

「やがて君になる」は百合漫画の傑作だ

私は漫画をよく読む。面白い漫画もつまらない漫画もあるが、素直に面白いと思える漫画は少ない。感覚的には1%未満だ。

電撃大王で連載中の「やがて君になる」はこの数少ない面白い漫画だ。内容は恋愛物だが、女性同士の恋愛、いわゆる百合物である。

思い返して見ると、百合物は基本的に好きだ。10数年前にも「マリア様がみてる」にはまり、コバルト文庫の発売日を毎回楽しみにしていた。当時はまだ20代であったが、男性がコバルト文庫を買うのはとても勇気がいることであった。成年向けの本よりもずっと恥ずかしい。

マリア様がみてる」は、基本的には百合であって百合でない微妙なところがあるが、「やがて君になる」は完全に百合である。「百合」が何かという定義は考えたこともなかったが、ここでは女性同士の恋愛模様を描くことを主たるテーマとする創作物としよう。「やがて君になる」は、女子高生同士の恋愛である。関係は先輩と後輩。女子校などでは実際にもよくあるのかもしれないが、私は男性だからわからない。

恋愛物の漫画は、基本的に年をとるごとにつらくなってくる。というよりもただのノスタルジーに近くなり、憧れ的な要素がなくなってくる。漫画に限らず、創作物に対してわくわくする体験というものは、憧れが主たる要素であると思う。そして、憧れというものは、自分にとって分からなければ分からないほど良い。わかってしまうと、憧れはすっと現実に変わってしまうからだ。私が創作物に求めているのは現実ではない。ただ、わからないものであっても、もちろん、根本的な興味だけは必要だ。ゴキブリ同士に恋愛があったとしても根本的に興味がないため、わからなくても憧れるわけもない。

私は男性だから女性の女性に対する恋愛感覚はわからないし、そもそも女性自体もよくわからない。ただ、女性というものに興味はあるし、魅力的な女性は好きだ。女性という私にとって興味のある対象の、同性への恋愛感情という自分にはわかりようのない感覚を描いているものであるから、憧れないわけがないのである。

やがて君になる」は、好きになって欲しくない先輩と好きという感覚がわからなかった後輩の物語だ。先輩は自分のことを好きにならない後輩が好きであるため、後輩は好きになってたとしても好きと言えない、主として二人の関係だけで言えば後輩がつらい話になる。この設定だけで言えば、男女でも成立する。ただ、男女は恋愛関係に陥りやすく、他方、同性同士は恋愛関係に陥りにくいという偏見から、成立しやすくなっているだけのことである。

そういう意味では、先輩または後輩のいずれかを男性的に捉え直して、自分を投影すると通常の恋愛物のような気分として味わえそうな気もする。おそらく小説だとそのような方向に自分の思考が流れてしまいそうである。しかし、漫画は絵があるため、そこには可愛らしい女性しかおらず、自己投影する余地はない。自己投影ができないと、勝手にわかった気分にもなれないため、わからなさが減少しない。そのため、ふたりの関係への憧れ的な何かが継続し、結果として面白いという感覚を得られるのである。「やがて君になる」は面白い。心が動く。

男性がこの感覚を利用しないのはもったいない。「やがて君になる」はおすすめだ。